アレッシオ・レオーニ
思い返せば、あの一文に出会った当初のおれは相当荒んでいただろう。
あれだけ仲睦まじかった愛しい恋人との関係が泥沼に沈み込み、社会的未来もまた不確かで、そして、(このような突き放した言い回しをしながら回想することが、まさにアレッシオ・レオーニという作家に興味を惹かれた理由の一端なのだろう、しかし、おれはごくごく一般的な人間であり、だからその価値観に収まらない者たちをエンターテイメントなポップアイコンのごとくここで表現することを許されたい。SMクラブの女王様、ラバーフェティシスト、ゼンタイフェティシスト……、事実、おれは彼らと知り合う過程において、一般的な人間という立場であるゆえに、当事者達と違い、幾度も大きな金額を支払ってきたのだ……)両性具有者達の集まる風景で相手を口説いては時間と金を費やし、なんとかつかみとったそのからだを抱きしめ、ただただ一方的に欲を満たす一瞬にのみ理性を越えた至福を見出し、僅かながらの希望の光を感じ得ていたのだ。
あの一文にまつわる、もろもろの出来事がおれを変えたわけではない。あの一文に出会ったことと、上昇のきっかけを得たこと、2つのタイミングが、おれの人生のなかで偶然にもクロスしたにすぎない。
「ここで何百万字と費やし地中海周域についての教科書的な歴史をおさらいのごとく語り続けてもいいが、それじゃあ貴方がたは不満だろう。しかし、今はそうすることに絶大な喜びを感じるのさ。それとシャンパン。私にとって、真なる至福というのはそういうものだ」
イタリア人作家のアレッシオ・レオーニに出会ったのは1992年の秋だ。手はじめに彼は、作中で上のように語ったが、その英訳は、権威あるイタリア文学者F.R.ラザフォード。要するに、おれとレオーニとの出会いは英訳された3作目の小説『3ミリグラムの点描』(1977年)のなかで行われたのだ。とある雑誌に、F.R.ラザフォードがしたためたレオーニについての幾分ぶっきらぼうな評論がある。要点を引用すると、
「アレッシオ・レオーニの小説の登場人物は(予測できない行動をやたらにとるという点で)非常に独特ではあるが、肉欲に溺れる彫刻家、アメリカ西海岸に渡ってサーファーになった俳優、駅の真下に地下室を作り心が生みだした飛行する生命体ゲリュオンとの戦いに励む青年などユーモラスにすぎているため、そこに著者の面影をつかみとることはできない。レオーニは確かに大きなテーマを抱えているようなのだが、それが見えない」
この評論は次のように締めくくられる。
「今後の展開に期待と不安をもたらす作家である。われわれの想像を遥かに上回る巨大なテーマと格闘していることがのちの作品から分かるようであれば、レオーニの小説をもう一度読みなおす必要がでてくるだろうし、それでわれわれは一生に一度あるかないかの感銘にさらわれるかもしれない。だが、もしそうでなかったなら残念ながらアレッシオ・レオーニという作家は文学史から忘れ去られるだろう。ただのお遊び、もしくは、大量の失敗作を生みだした作家か、というふうに」
これは『3ミリグラムの点描』を読み終えたときに、おれ自身が感じたことに等しい。だが、楽しいだけでもいいじゃないか、そのような感想がそのあとを引き継ぎ、次の英訳を発見するまで、しばらくの間、忘れてしまうことになる。
おれは、イタリア文学者を目指しているのだから当然イタリア語を読むことができる。だが、レオーニの原書を実際に手にとるのはもっとだいぶあとの話だ。ちなみに、英訳本を見つけたのは、神保町で、密会していたSMクラブの女王様とピュアなデートをしていたときのことだ。様々なM男性の話題が飛び交い、様々な悪徳小説の表紙とタイトルが目の前を通過しただろう。楽しかったが、辛い思い出だ。
レオーニ6作目の小説は、ドイツのバイエルンアルプスで書かれたらしい。『これでおしまい、なのか』(1980年)というマルグリット・デュラスのタイトルをパロディ化したその作品は、英訳されなかった4作目、5作目のあとにトマス・ロンシュタットという翻訳家の手によって出版。冒頭は、
「ここで何百万字と費やし地中海周域についての教科書的な歴史をおさらいのごとく語り続けてもいいが、それじゃあ貴方がたは不満だろう。しかし、今はそうすることに絶大な喜びを感じるのさ。それとシャンパン。私にとって、真なる至福というのはそういうものだ」
おれは面食う。もしかして、タイトルを変えられて新訳されただけの、同じ小説を手にしてしまったんじゃないかと思ったが、『3ミリグラムの点描』で、
「だから地中海周域についての教科書的な歴史をおさらいのごとく語り続けることからはじめよう。できれば最終行までこの調子でいければいいのだが、それは読んでみてのお愉しみさ」
と続くのに対し、『これでおしまい、なのか』では、
「だけど地中海周域についての教科書的な歴史をおさらいのごとく語り続けてほしいなら私の3作目の小説を読まれたい。なぜなら、私は今バイエルンアルプスにて出会ったヌーディストの女性たちと憩いのシャンパンを飲んでいるからさ」
と引き継がれていく。
その長編を、おれは3日にわけて読んで、その間、恋人と喧嘩したり、友達の悩み相談を受けたりし、原書で揃えてある作家の1人であるイタロ・カルヴィーノをテーマにした研究論文にレオーニを登場させ「アレッシオ・レオーニもまたカルヴィーノの影響を受けている作家の1人である。例えば、その軽さ、荒唐無稽さ――」と日本ではまだ無名であるこの作家の紹介に何らかの熱意を注いでみたりもしただろう。先のレオーニの6作目『これでおしまい、なのか』は、はっきりいっていまいちだったが、しかし、レオーニの存在は、おれのなかでこのとき、すでに動かしがたい地位を獲得していたのだ。なぜなのか、当時は、まるで分かっていなかったにしても。
得体の知れない自らの嗅覚を、おれはいずれ才能と信じていくことになるだろう。
それは、理屈ではない。
トマス・ロンシュタットによる英訳『これでおしまい、なのか』の冒頭に掲げられた作家紹介文によると、アレッシオ・レオーニは今も健在であり、31冊目の長編を発表したばかりだという。1993年の時点で54歳。ヨーロッパを離れ、アメリカ、2つの大陸縦断の旅をしている真っ最中だという。当時おれは、イタリア他、数ヵ国の旅行経験があったが、レオーニの旅のスケールのでかさにも面食らったことを覚えている。だが、一度たりともレオーニに尊敬の念を抱いたことはない。当時にしても、たった2つの小説を読んだだけであるにもかかわらず、レオーニの大陸縦断に、何らかの信念が含まれているようには露ほども思えなかったのだ。むしろ、なんたる軽い人間なのか、そうレオーニという作家をおれは印象づけていたように思う。
そんなある日のことだ。
おれはいつものごとく六本木のフェティッシュバーでウイスキーを舐め、恋人との関係が悪化しつつあることを一時でも忘れてしまいたく、全身ラバーフェティシストの見知らぬM女性を夜風と強雨に晒すべく外出させる遊びに惚け、そして、80年代を引きずったインテリジェントな性の話題にうつつを抜かし、やがて明け方に近づいてきた頃、思いがけないことにも、そこで本当にアレッシオ・レオーニに出会ったのだ。一期一会らしき日本人女性に向けて語るその流暢な言葉の内容からその人物がレオーニであることがどうしても頭から消せなくなり、だが、外見から判断してその男はおよそ30代半ば、アジアのどこそこの2世的な香りを漂わせているため、54歳のイタリア人であるレオーニとはまるで掛け離れているにもかかわらず、思いついたその妄想の抑制をどうしてもきかせることができず、側に寄り、問いかけたのだ。
「あなたは『3ミリグラムの点描』という作品を書いた作家アレッシオ・レオーニですね」
このとき、男が一瞬目を輝かせてみせたことを、おれは今も記憶から消せない。
「なぜばれたんだ? 世間では54歳のイタリア人作家だよ。世の中は意外と広い。いや、俺の書く小説程度に広い。ばれたからには仕方がない……あの作家と同一人物だということを証明するものならなんでも見せよう。ただし、このことは内緒にしてくれないかな。このシャンパンにかけて」
この出会いによって、おれはアレッシオ・レオーニという作家の謎をあらかた知ってしまった、それは間違いだったのだが、おれはそう信じて興奮していただろう。36歳という年齢で54歳の作家をきどり、構想上レオーニが死んだあとは新たな作家を創造し、その人生を悠々と演じるそうだ。
「俺の作家としてのデビューは14歳の夏、日本。その前にアンドレ・アルノーっていう嘘臭い名前で32歳の英語圏評論家を5年近くやったね」
もう明け方だというのにフェティッシュバーの熱気は一向に醒めることなく、どういうわけか5人のゼンタイフェティシストが床で寝そべって皆でからだをさすりあっている。おれの空けたボトルを通してバーカウンターに立つ両性具有ウェイター/ウエイトレスのペニスが僅かな照明のもとで覗き見れる。静かなボックス席にてレオーニ(もちろんこの名前は彼の本名ではない)に、おれはやがて厳しい批評を送る。確かに、あなたは天才という言葉がふさわしいが、しかし、あなたが偽っている作家であるレオーニの小説には欠点が多くある。つまり、作家としてのあなたは三流だ。彼の隣にいた女性が眉をひそめ「偉大な作家になることがそんなに重要なことなの?」と笑うが、レオーニがそれを遮り、
「俺は十代の頃までに様々な作家の言葉を読んで学び評論を書いてきたからね、作家当人の苦悩、深刻すぎる問題に正面からいどんだ多くの偉業には、感銘という言葉では表し得ないほどに強く好意的な思いを抱いているさ。確かに、俺は実力の半分も使わずに数週間で作品を完成させて、残りの日々をアバンチュールに費やしているけどね、それは、俺が表現ってやつを忌み嫌っているからだ」
光が反射するようにグラスを傾けながら、こう続ける。
「俺が表現しているのは地中海周域についての教科書的な歴史うんぬんってやつだ。つまり、俺の態度を表明しようと思ったら、今のようにやるしかないのさ」
半ば落胆しておれは聞いただろう。
「要するに、あなたの作品を研究してもまったくの無意味だということですか? すべてが他人事である表層で満ち溢れ、あなた自身が織り込まれていないどころか表層自体を問題ともしていない――」
前知識のなかった女は、もう別のテーブルに移り、露出狂めいたことをしてその場を楽しんでいる。彼の返答は、いよいよおれを落胆させる。
「俺は昔アンドレ・アルノーという批評家だった。今はアレッシオ・レオーニという作家として生きている。こういう人生ってね、このシャンパンのごとく刺激的でね、小説なんてものがほとほと馬庭ばかしくなってしまうもんなのさ」
『わがふるさとイタリア』というレオーニの自伝小説が英訳されたのは1993年の10月だったが、それを書店でみたときにおれは失望から手にとることすらしなかっただろう。レオーニの秘密を公表したいという欲望に襲われなかったかというと嘘になる。だが、嘲笑を恐れ、それを個人的な思い出として留めておくことにし、心のなかからレオーニに関連するすべてを追いだしてしまおうと考える。自分の幸せのためにもそれが一番だと、行き着いたのだ。ちょうどそのころイタロ・カルヴィーノを題材に書いた論文が一部で大きな評価を得たため舞い込みはじめたイタリア文学者としての仕事に、目が回る思いでおれはとりかかっていたが、それは人生で初の喜々とした生き甲斐のある日々だっただろう。口喧嘩の絶えなかった恋人との関係もうまくいきはじめ、1994年が輝かしく目の前に広がっているように思われたのだ。
そのすぐあとに、一つの事件が起こされなかったなら。
レオーニが病死したというニュース。……
おれは、落ち着いて、少し考えなければならなかっただろう。もうすぐ55歳を迎えようとしていたあのレオーニが死んだだけだ。レオーニを偽ってきたあの男は、まだ地球上のどこかで次の人物を用意しているに違いない。そして、おれははっとし、苛立ちを兼ねて、呟く。
あのとき出会った男は本当にレオーニだったんじゃないか、つまり、あの男はアレッシオ・レオーニという人格に成り済まして、本当の人格を隠し通していたんじゃないか?
おれは急いでレオーニの遺作となった自伝小説『わがふるさとイタリア』の英訳を購入する。時期を同じくしてあのときのフェティッシュバーで知りあった全身ラバーフェティシストのM女性から熱い誘いの連絡が入ったが、順調に動き始めたおれの仕事を停滞させるレオーニの件を解決させることで頭がいっぱいだったおれは、なによりも奇跡的に修復しはじめた恋人との積極的な関係維持のこともあって、その誘いを断っただろう。以前ならきっと時間を無理に作ってでも会っていたに違いない。そう、『わがふるさとイタリア』を読みながらおれはこの自身のエピソードを思い返さずにはいられなかったのだ。レオーニ当人として描かれている主役の男性が次から次へと誘われやすい場所へ行き、誘いに乗り、仕事である作家業を片手間のごとくこなしていく姿がそこに描かれていたからだ。驚くことに某ヌーディスト団体への加入、草食動物の群れのような楽園の光景、とある複雑な恋愛関係、そしてそれがきっかけとなった団体の壊滅というなんてことのない一連の流れがこの小説のクライマックスであり、まるでヌーディスト云々を抜きにすればハーレクインロマンスのようでもあったこの分厚い『わがふるさとイタリア』を、そのことも手伝っておれは1日で読破したが、結局本当に彼がイタリア人として実在していたとしか思えない自伝的要素が見事というほかない技術力でちりばめられていただけで、その荒技に対して心から感嘆はしたが、しかし、おれの求めているような告白はどこにも見出せず、それはかつてイタリア文学者F.R.ラザフォードが「この作家は歴史から忘れ去られるだろう。ただのお遊び、もしくは、大量の失敗作を生みだした作家か、というふうに」と述べたことを改めてなぞる結果さえ思い起こさせる読後体験、だが、きっと、唯一おれだけはもう一つの感想を見出さずにはいられなかったのだ。つまり、アレッシオ・レオーニは、完璧に真実を仄めかすことさえなく、空っぽの人生をきれいに終えたのだ、と。
おれは途方に暮れたが、文学者として成功しつつある自分の人生をなんとしてでも守りたかったので、再び、レオーニを心の奥に封印してしまう。
それから3年後のことだ。
次のような電話が、おれのもとにかかってきたのだ。声が笑っている。
「久しぶり。死んだはずの、アレッシオ・レオーニさ」
おれは度肝を抜いていう。
「その声は!」
「きみは唯一事実を知っている人間だからね」
「今なにをしている?」
受話器の向こうでは男女の騒がしいホームパーティーといった雰囲気だ。ときおり、笑いながらの喘ぎ声も聞こえてくる。
「知リたいか? 初心にかえってマルキ・ド・サドの会という結社を作ったのさ。アメリカの悪魔教もヒッピーもハードコアポルノムービーも顔負けのようなね。あまりにも働きすぎて金はたんまりとある。今、俺の真下にいる双子の男女はとっても若すぎてすごくかわいいんだぜ」
「違う、おれが聞きたいのは」
「分かってるさ。そう、俺は今、35人の作家を偽り、我が人生を楽しんでるところさ。サイバネティクスを今更掘り起こす売れないSF作家、ギリシャに骨休みを兼ねて旅行に行っているラブロマンス作家。ホラー作家、古典的ミステリー作家、それにミニマリスト、ノンフィクションライター、ポストモダニスト、この3人はあまリ売れてないからね、もうすぐ消えるかもしれないね。日本人作家もいる。小説に限らず、詩人、俳人なんかもね」
咄嗟に、おれは煙草を口にくわえる。火。その煙がやがて室内に散っただろう。
「いったい何の意図があってそんなことを今教える? おれはきみを相手にしたくない。確かに興味はあるが、順調に回っている歯車を狂わせたくないんだ。そうか!」おれは無意識にも声を大にしていう。「三流の作品しか作れない腹いせにナンセンスな天才ぶりを誰かに自慢したかったんだろう!」
沈黙が横たわる。受話器の向こうからレオーニの声が聞こえてくるのをひたすら待ち続ける。
「ふうん。舐められているんだね。まあいい。電話をしたのはね、きっと、きみが俺のことを私的なノートに書き留めているに違いないって推測したからさ。そこで、結末に本人からの電話があった方がね、この麗しきストーリーに締まりができるんじゃないかと思ったのさ」
「結末?」
「それじゃあ物足りないっていうんなら、望む通りの事件を数日中に起こしても構わないんだよ、さぁどうする?」
「待て!」
「さあ、答えて」
「それじゃあ……」おれは呟くようにいう。「自己紹介だ」
「それでいいのか?」
受話器の向こうで沈黙があったあと、納得したような苦笑が続く。
「語り手として落ちこぼれだな、きみは。自己紹介、自己紹介か……。まぁいいだろう。耳の穴をかっぽじってよく聞くがいい。俺は自伝を決して書かずに死ぬ。俺はきみをぜんぜん必要としていない。もしもきみが探偵を雇ってでも秘密を暴こうとするようなロマンチックなやつだったなら、間違いなく将来きみが手記として残すことになる驚異の暴露ノンフィクションはこのイタリア風味の情熱色のシャンパンのごとく、しっとりと酔えるものになっていたはずだ。2人の人間の戦いの記録、そうさ、きみをのっとるべく俺がきみの名前でイタリア文学者を登場させていたかもしれない。きみはいずれ俺を追い込んではり叫ぶ……きみの存在そのものが表層化され、世界から塵のように消えていく、そんな絶望を、深海のアメジストのごとき深い涙とともに体験していたかもしれないね。大事な恋人も社会的地位も剥奪されて、存在証明ができなくなるところまできみは追いやられる。まるで、テーブルから落ちた皿のように自分自身のことを思うようになるだろう。偶然ばったり再会なんてことになればあのクリスマスカロルの雪のように冷たい血雨が舞うことになるだろう……違う、こういう可能性もある。俺たちは意気投合、2人はまるで俺の書く小説のように珍奇な人生の魔力に飲み込まれる、メエルシュトレエムの渦のようにね。かつての陳腐なる英雄アレッシオ・レオーニのように、世界各国を放浪し、死ぬまで歓喜とエロスに満ち溢れ悶えバベルより高く昇天したかもしれない……だけど、きみは普遍性を選んだんだよ。こうやって自己紹介を避けながら俺はいったい今なにを考えていると思う?」
電話は唐突に切れ、しばらくおれは微動だにもできなかっただろう。
もはや彼が存在していなかったという予期し得なかったヴィジョンからおれは逃れられなくなっている。心が張り裂けんばかりだ! 昨晩ビエール・ヴィットリオ・トンデッリに関しての論文をまとめていたがそうやって論文を制作しているという現実味そのものを、おれは一切抱けていない。この報告書を書き終えようとしている今現在も、遂にその気分は変わらない。だが、いいだろう! 今、おれの愛しい恋人が帰ってきた音がする。その現実に、おれは喜んでしがみつく。
_underline, 1997, 2010, 2020