逆闇
一
窓から差し込む夕日で教室の机が真珠色に染まった頃、課題のレポートがどうしてもうまくできないとシリアスな顔で迫られた同じゼミの女に、男はまったく別の話を告げられる。世界はもともと壊れていたのかもしれないが、ばらばらだった破片はさらに細かく冷徹に砕かれることもある。この女は父子家庭だが、父が、と女はいう、誰かを殺したみたいなの、本当はそれが誰をなのか、だいたい想像はつくけど、私、帰るのが怖い。不意打ちのように訪れる他人の物語にうんざりしながら、こういう考え方もある、きみも、誰か、例えばおれを殺してみたらいい、そうすれば、きみの父がやってしまった行いに未知がなくなって〈なあんだ〉という気持ちで家に帰れるかも、それで、父も父なら子も子ねと吐き棄てながら一緒に自首しましょう一緒に奈落の底へ落ちましょう、そこまで言ったとき、茫然と男を見ていた女がガタンと音をたてて立ち上がる。まるで五つの感情が同時に襲ってきたかのように小刻みに揺れる、痙攣のよう、そして、何いってるの? 大声を。さあね! 答える、微動だにせず椅子に座って左からの夕日に染まった白紙にボールペンの影を垂らしつつ、空を見ろよ、四つの月が見えるか? 起こったことであるにも関わらず信じたくないんだろ、今何時だ、二十三時五十五分まで一緒にいてあげるよ、その次に時計の針が一分進んだとき、場面が変わる、きっと。騒々しいやりとりだが殺風景な大教室で二人に注目する生徒はいない。誰も未編集の生々しい物語になるべく近寄りたくないのか、カップルの痴話喧嘩にすぎないと高を括っているのか。男はあるひとつの必須科目でたまにしか話さない女を横に連れてキャンパスを歩く。二人が通う大学では、ゼロ世代的な学生運動が時折目につく。あるゼミの中堅どころの教授は必ず反原発の話題を差し挟む。私の父は、と女がさらに自らの物語にディテールを付け加える。男は思う、そうやっておれは失われるのだ、だが、このあと自宅に帰ればそこには結局のところ重力が歴然とあって、事態がさらに先送りにされてしまった状況に気づくはず。少し雨が降っていたらしい。打ちっぱなしの建物の隅に座ろうとしたが若干湿っていたので男は壁に凭れてあとをついてきた女と鉄塔をじっと眺める。いつからこうなったんだろう。時折見る夢に襲われる。夢のなかでは、見知らぬ男二人が嵐の夜に鉄塔を見ながら語らっていたが、男は女と雨上がりに鉄塔を見ながら語らいに入ろうとしている。この近似に何の意味もない。こう考えるとどうだ。その夢のなかの男たちに自らを重ねあわせ、酔うように演じるのだ。一人を思いだしながら、きみは、本来のきみの姿をどのように考えている? ふいの質問に驚く、そんな突然…。そんなの、今考えらんないよ、父が人を殺したんだよ、頭のなかがぐちゃぐちゃなのよ。男が続ける、父と恋愛関係ですらあったとさっき告白してくれたが、もともと父を恐れていたわけだ、世界は広いんだよ、父を警察に突きだせばどうだ? それとも、幾らか話を聞いてくれそうな店を紹介しようか? 怖いんだろ。今までの生活からすべて切り離されてその身が吹き飛びどこか闇に失われてしまわないようなあの手この手がこの人間社会には無数にある、良かったら、手ほどきしてやるよ。男は、夢のなかの人物になり切ってそこまで口にしたが、自らの腕にびっしりと呪術系のタトゥーが刻まれているような錯覚さえあったが、口を滑らせて話したような店の数々を一切知らない。一方、女の瞳は半分が闇に包まれたまま。父を愛しているからだ。男は、鉄塔をじっと見据え、夢のなかのもう一人の男を思いだし、きみはね、小説的人間ではない、登場人物的なんだ。女は、今度は文字通り、は? といった顔をし、何いってるの? という言葉すら驚いてでない。気にせず、男は続ける、結局は、殺人者のいるところに帰るのが怖いんだろ、きみの愛する人は昔から表面張力の状態にあって、薄々そのことに気づいてもいたが希望的な観測にすがりつき目を伏せていたんだ、絶望的な選択をこのヒトは結果的に選ばないという人物像を立てて愛しあっていた、が、ガチャンと壊れた、つまり、家に帰るときみが信じた人間はそこにはいない、姿かたちだけが似た他人がいる、殺人者という誰かが。それだけの話じゃん、抽象的な恐怖だ、思い込みによって事実とは違う人生を生き続けたフェイクの舞台で起きた悲劇、それじゃ、まるでイく価値がない、もっと強く確かな刺激が必要なんだよ、そうだろ? 強い風が近くの木々を揺らす。女が、男から一歩遠ざかる。男も、我に返って口ごもる。
この数分のやりとりを経て理性から女はこの場を即座に去ろうとも考えたが、そもそも女の生きる狭い世界で今抱えている事柄を他の誰に話せばいいのだろう。今もたいして変わらないが頭がおかしかったのだ、こんな他人ともいえる男に相談した事自体が。だが、勘だったがこの男以外に話せる人間はいないとも、おそらく。女は、側にいる男が抱える物語をまるで知らない。聞くとしてもそれは今ではない。男がいうように警察へいくのが正しいのかもしれないが、父に殺された人が集めてきた交流関係は普通ではないから、身をくらました方がいいようにも思う。どこへ? 遠くに聳えたつ鉄塔はただの鉄の固まりでしかない。しかし、ビルが建ち並び焦点が定まらない景色よりかは幾分集中力を保ちやすいということに女は気づく。日が暮れだしたが、二十三時五十五分まで、まだまだ時間がある。男は、他人の物語から可能な限り逃れ続けて生きてきたが、どういうことだろう、数行、女の物語に完全に支配されてしまっている。男は、それで女のからだを欲しくなる。といってそれを行使することはない。男は、被支配を性的行為で補う欲望が去勢されている。他者の物語から必死で逃げること自体がプレイの一貫なのであり、ひたすらそれを積み重ねることで逆に他者から支配されてしまったときの快楽を強く得るマゾヒストなのだ。あらかじめ暗黒のカードしか与えられずに生きてきた男にとって世界は牢獄と等しい。快楽とは、牢獄の最終形態だ。鉄格子とは押し寄せてくる他者の物語である。支配者である母に願われた通学というボンデージを受けてときおり見る夢が幾度も弾きだされる。分厚い雲による逆光ならぬ逆闇(ぎゃくおん)に照らされた鉄塔、それは、場面が変わる時刻のための門であり、いかずちによる音なひが、そして、訪れるのは神ではなく、この現代の牢獄において二人の男女が夢に溶け込む。男の願い、きっとそれは、誰か女とともに足場を崩すこと。フェイクの舞台。男の母の恋人やその周りにいる人間のことを考えれば、また、男の出所からつきまとうもろもろの業を考えれば、まるで何もなく大学を卒業しそのまま普通に職につけるなどと予測を立てていること自体がナンセンスだ。だから、と男は思う、たまたま距離が近づいたこの女と場面の果てへと旅立つのもいいかもしれない。道連れに。海岸沿いで死んだ女に挿入している夢もあったはずだと思いながら、側の女の肉体に目線をやる。他にも、死体を埋める男女の夢や、嵐の高速道路で車から飛びだした男が甦る夢など。夕陽が落ち、風が強まる。と、女の頭が肩にののしかかる。見ると心底疲れていたのだろう、かたく目を閉じ寝息を立てている。二人とも地面が濡れていたために立ったままだったので、そのまま崩れ落ちてしまわないよう抱き寄せる。唇を見、睫毛を見る。爪先を見、順に露出している肌を目で追う。男は股間が熱くなっている。それはやりたいというのとは少しだけ違う。迫りくる死の壁、それ自体への欲情だ。もちろん、隣の女とそれを共有したいのだが。やがて大粒の雨が大量に落ちてきたので、ぼんやりと目覚める。周囲は闇に包まれ、男の顔が近くにある。女は思う、いったいいつからだろう、奇妙だ、その匂いが自然だ。まるで私の魂がこの男に預けられてしまったかのよう。すると男がいう、鉄塔の側の空を稲妻が切り裂くからね、不在の神の焼けた影だ、妙なるひびきを味わいながら向こうに行こう。
一時間、無言で鉄塔を見るだけの時が流れる。同じ建物の雨避けができる壁に移動し、雨は嵐に変わり、女はふいに大学の教室で男がいった台詞を思いだしその顔やからだを観察する。からだが冷えていく。そういうこともまた心地いい。肉体は震えている。もし本当に二十三時五十五分、あの鉄塔に雷が重なったらどうなるの? 仮に私がキミを殺してもいいの? そうしたら私、父ともっと愛しあえるのかな。男が女をちらと見る。まだ、女の物語が動いている。男の背後、様々なこれまでに見てきた夢がうごめいている。何度も、と女が告げる、父からの着信があるの、私、呼ばれてる。男がいう、きみの父の物語だ。第三者だ。女からからだを離し、行きたいなら行きなよ、おれは、支配者じゃないから、それに、ここで待ったところで別に解決するわけでもないから。風雨に身を晒す。男は安らいだ顔すらしている。父の物語にとりこまれた物語を持つ女がそこにいただけだ。男は街の向こう、鉄塔へ向けて歩いていく。背後から女が近づいてくる気配なく。建物の群れに飲み込まれて一時的に鉄塔が見えなくなる。ずぶ濡れのまま人が行き交う通りにでるが、しばらくいくと艶やかなネオンの看板が連なるストリートが。明治の作家はかつて言文一致を縦書きの空間に試みたかもしれないが、そのとき同時に、漢字や仮名で詰まったところにアルファベットを織り交ぜ、更なる場面の変異を計っただろう。いまや都市のなかで旧家屋が現れることの方が変異だ。ホストの固まりを通過し、ガールズバーの呼び込みをよけ、先の鉄塔があるはずの方角へ。これまで何度も電車から覗き見ていただけの鉄塔へ。英語の看板が縦に並ぶ雑居ビルが次から次へと。怪し気な店名の数が増え、情緒的な店名へと移ろい、スーツ姿の大柄な男たちが行き交い、ホステスらしき女たちがときおり足早に歩いている。そこを歩く誰もが皆しっかりとした傘をさし本降りの雨を凌いでいる。騒がしい通りを出て平行線とは縁遠い道の交差しあう区域へ、見渡すと簡素なビルが建ち並び、見上げてもまるで鉄塔は見えず、黒い雲から把握し難い複数の雨が。水分を多量に含んだ衣服は冷たく重い。一時間ほど歩いただろう、雨が上がり始める。一度も雷が空を切り裂くことなく。男の物語は、男の物語でしかない。日本に関連した気象がまさかそれにつきあうわけもなく。だが、あのときに女が儀式を中断させなかったなら必ずいかずちが落ちたに違いないと男は信じて疑わない。
男は母に帰りが遅くなると携帯で電話をしたあと、先の女から何度も着信があったことに気づく。だが、かけなおすことはない。他人の物語だ。相談されなかったなら数日後にでも同じ大学の顔見知りがどうのこうのとニュースで見かけていただけかもしれない程度の件だ。ドンキホーテで安く衣服と小さなタオルを買い、トイレで着替えるとびしょ濡れの服とタオルを袋に押し込む。鉄塔に近づくなだらかな坂を上がっていく。それは川の側にあり、周囲は暗い。曇り空のもと雨で光を反射する鉄の交差をじっくりと感慨深気に男は目に焼きつけていく。人影がいることに気づきその方向を見る。立ちすくむ。先の女がよろよろと近づいてきて、やっぱり、怖かったの、帰れない! ねぇ、一緒にいて! 男は、瞬間それが誰なのか分からなかったが、すぐに記憶が甦り、女に近づこうとはせず、驚きの眼差しで見据えるばかりだ。握りしめた携帯には二十三時四十九分の表示が点灯している。雨は降ってない。しかしこの日はじめてのいかずちが遠くの空で轟く。豪雨が襲ってきたのはその二分後だ。男は突然絶叫をあげる。夢のなかに現れた複数の者どもが脳裏をよぎる。逆光のごとく闇が。突然、女に向かって駆け、横切って走り抜けると、濡れた鉄塔に手をつける。男のなかで複数の人格が混在している。精神的ストレスでぼろぼろになっている女に向きなおり、とても、とても小さな声で呟く。なぜ、この女はわざわざ自分から殺されにきたんだ? そしてもう少し大きな声でいう、物語は、このようにして始まるんだ! 今度は女が後ずさる。落雷を引き連れ鉄塔の背後で轟音が弾け、男の幻覚だが、周囲が同時に闇で均一になり、男の側の鉄塔を中心として東西南北の方角に一つずつ満月が現れる。女が、男目がけて走ってくる。泥濘に足をとらればしゃんと転ぶ。男が四つの月の明かりに照らされながら鉄骨類の脇に転がっていた何か鉄色の球体をつかみとって女に歩み寄る。男がいう、おれ自身の欲望が何を欲していたのか、目覚めたよ! 雷鳴が響き渡り、幻覚が消え、闇夜と豪雨に包まれて霞がかった鉄塔が二人に濃い影を落としている。大地を叩く雨。静かだ。さっきは一度も気づかなかった着信音が高らかに鳴り、男はポケットにある携帯をつかみとるとそれを遠く泥へ投げ棄てる。女はしゃがみ込んだまま男を見上げる。悲鳴もでない。振り絞るが声も出ず、こうやって、あのヒトは父に殺されたんだ、と死者の生前の顔を思い浮かべる。影、影、影、影ばかりだ。ごめんなさい、と女がなんとか口にする、キミはとても弱いんだ、面倒臭い話をしてごめんなさい! 女は、父を理解したと思う。ねぇ一緒にさっき話してくれた店にいこうよ、この社会にはあの手この手と手段があるんだって、キミがいったんじゃん! キミ自身がいったんだよ、思いだして! もう分かったよ! 被支配者がこうやって自滅していくのがこの世の中なんだよ! ねぇ、と女が願いを強く込める、キミの話を聞かせて、私がすべて受けとめてあげるから。父とは恋愛関係にあったけど、最初はとても強引に…、でも、父は父なの。物語が始まるって? なら、私だって始めるよ! 女がゆっくりと立ち上がって微動だにしない男の頬をはたく。フェイクの舞台が剥がれて姿かたちだけが似た他人がいるから怖いんだろってキミに言われたけど、父を救えなかった現実を見るのが、私が私のままでいる自信が壊れて絶望するのが怖かったの。父を通報する。その面倒も、できる限りみるつもり。どう? 女がもう一度男の頬をはたく。男が手にしていたものがばしゃっと地面に落ちる。キミ、私に支配されなよ。見て、この嵐に浮かぶ鉄塔。すごくきれい。この鉄塔だって私のものにしたい。男がもう一度口にする。おれは支配者じゃないから。そして、さっきまでのことがまるで一切なにもなかったかのようにいう、自販機でコーヒーか何かおごるよ。おれは、夜の街を彩る、いちエキストラでしかなく、できればきみと甘い喧噪に溶け入りたい。
二
私の話が聞きたいか。しとしとと雨が降っている。尋ねられはしたがじっと黙りこくったまま男は答えない。話? 男は思う。ついさっき会ったばかりの赤の他人に唐突にそんな質問をされて誰が聞きたがるのか。じゃあ、手にしていたグラスに口をつけたあと、おれの話を聞きたくないか? 口元を悪魔のように。そうだ、五つ向こうの椅子に座って二時間前から一人で黙々とワインを飲んでいるあの女の話を聞きたくないか? 話しかけてきた赤の他人がちらちらと女を盗み見る。突風でもきたのか騒々しく窓が音を。闇が深い。提案がある、あの女に貴方の話を聞かせてみせてくれよ、三十分以内に。証人はこのバーのマスターだ。もし成功したら今度会ったときは一晩中つきあってやるよ、貴方の話に。そういってチェックして席を立つ。この世界は、人の数だけ物語があり、その組み合わせを含めれば、絶望的な量の物語がひしめいてるんだ。男は外へ出ると傘をさし、闇に消える。それをかきわけ、明かりの方へ。曲がり角を越えると駅へと続く商店街で、音が重なり光が飛び交いその唐突さで男は目を伏せる。左の方でいざこざでもあったのか人だかりができているが、真下に転がった一本の足につまずき、転びそうになる。適量以上の酒を摂取したサラリーマンだ。制服姿のカップルがチャラチャラしたノリで歩いてくる。駅にたどり着くまでに次から次へと他人の数々とすれ違っていくがすべて記憶から忘れ去られていくのだ。パチンコ店から暗い顔をした女が飛びだしてくる。それを避けるために歩くルートを少し曲げるが今度はカラオケ店からでてきた会社員たちの群れに行く手を阻まれ、その喧噪をよけてじぐざくに歩行する。そうやって駅につくまでにあった些細なことのすべてをたった一個の情景へと集約し、場面とする。そうすれば現れた人々、それぞれがそれぞれ、何かしらの物語を必ず持っているはずの人々を全員エキストラとして脇役に追いやれる。商店街を突っ切り、傘を閉じると駅へ。電車の窓に流れる街並。奇妙な夢を連想させる鉄塔がここで見える。何度も見る夢だがいつでも断片的で整合性がない。嵐のなか見ず知らずの男がハンドルを握り、助手席の誰かと口論している。もしくは海辺で死んだ女を荒々しく抱き寄せながら性交している。風雨荒れ狂う鉄塔の真下で一切記憶にない男二人が談合している。その夢こそ男が生きている世界であり、自らはその夢の影でしかないかのような。男の理性を包み込んでしまいかねない曇天の、そこに月が四つ並んで静かに薄気味悪く浮かんでいそうな夢。この男の物語はきっと、小さい頃に両親を失い親戚に預けられ、その若い女性が強く願った進学のちの通学を真面目に続けることであるのかもしれない。女は男のために日夜からだを売り続けている。その女にどのような物語があるのか一切聞いていないが、そのようにしてまで男を大学に通わせてあげることによって、女は、預けられた男の母となるのだ。二人の歳はそれほど離れていない。だが男は眠る母を横切って隣室、自らの寝床につくだろう。そういったことが車窓から見える鉄塔で掻き消える。男は人生を編集できないでいるが、放棄しドアを開けたならそこには鉄塔が聳えたっているはずだ。単なる夢であるのに、それが男の日々と関連づけられ、いずれ意識を見失ってしまうのではと脅える。身に覚えのない物語にすっぽりと支配されることへの恐怖。眠りに落ち、忘れた頃にその夢がやってくる。鉄塔のふもとで、見たことのない女と男が共謀し、知りもしない男の遺体を山に埋めている。カラっとした陽射しのもとでたくさんの男の子たちの腕が切りとられていく。一度として夢のなかに男自身が現れることはない。正気に戻りたいと男は母を演じる女の寝顔を覗き見ることがあるが、たとえそれが指先一つであったとしてもその肌に触れたなら、きっと世界は壊れ、整合性のない夢がなだれ込んでくるだろう。そのような物語を生きる女とともに暮らしているのだ。明け方、お母さん、と食事を作りながらいう。あの人とは最近会ってる? 女は下着姿で複雑な髪を整えながら、鏡台に並べられた化粧品と忙しなく格闘している。ねぇ、お父さんができたら嬉しい? さぁね、想像もできない。お母さんが幸せなら、できた方が嬉しいよ。ねぇ、彼女はまだできないの? 何度となく繰り返された質問に、むしろお母さんより先に結婚しちゃったりするかもね、そう身に覚えのないことを口にする。男は、母を演じる女が関係を持っている〈あの人〉が抱える法律的な闇に気づいている。男にとってどうでもいいことだが、結局のところこの男を支えているもろもろの事柄は、どれもこれもきれいなものではない。それはこの世界に投げ落とされたときより以前からそうだったのだろう。
ある日のこと、男はしばらく一人で夜の街をさまよったが、ともに鉄塔を眺めたあの女から連絡が入り、落ちあう。しばらく大学でも見かけていなかったが、男は他人の物語に関心が薄いので気にもしていなかったし、それゆえに再会もごく自然に行われる。女を連れてきた店は混んでいてボックス席に案内されるが、目の前で当然のように緊縛が行われている。色々とお金が必要だったから女はデリヘルで稼いでいるという。この店で縛り教えてもらいなよ。あのとき、俺は半ば憑かれていたから記憶がうろ覚えだけど、俺を支配してくれるんじゃなかったの? 男のもとに常連客の女がやってきて、笑顔で手を振ったあと女に気づいて去っていく。それを見てへぇーと女がいう、なんだかんだ遊んでたのね。それに答えて、あの日以来色々飛び込んで巡ってみたけど、ファンタジーとして昇華するしかないんだよ、俺は無意識で夢に乗っとられることを望んで仕掛けを作りはじめていく。ただ、あのとき、欲望の終着点は理解したから。男は、結局のところ殺したいんだ、とさらっといい、グラスに口をつける。店のスタッフがきて、しばらく挨拶や紹介が行われ、側で行われている緊縛が一段落したら男が今度は縄の練習台になるという方向で話が進む。一ヵ月もしたら女はこの店で働くことになり、さらに月日が経つとデリヘルをやめてSMクラブに女王様として所属するようになる。ということで男はとりわけなにもできないのにそこそこ人気のある女王様が礼儀正しく扱っている男として若干地位が高まり以前より居心地良く遊べるようになる。そういうふうに嫉妬深いM男性が口にしたりもするけど、違うのよ、私さぁあの人に一度本気で殺されかけたんだからという会話に尾ひれがつき、男はますます名に箔がつく。なにかに守られはじめたことに気づくことなく男はラブホテルに持ち込んだM女を合意で殴ったり首を絞めたりする。きみは流血するのが好きなんだろ、俺は、殺したいだけで血を見るのは好きじゃないんだよ、たいしたことができなくて申し訳ない。そういうと、M女は、ううん、いいのよ、とだけ答える。あるとき男は、鉄塔のもとでやりあった女の実験台としてラッピングされる。業務用サランラップでぐるぐる巻きにされてそれがほどかれたあと、神妙な顔つきで、こういう殺し方もあるのか、と呟く男に女は苦笑する。まぁいいけどね、という女に発注をお願いし、しばらく巻く側としてプレイヤーになる。自傷の痕がたくさんある細い女を手慣れた手つきで足の爪先から頭のてっぺんまでぐるぐる巻きにし力を込めて首を絞める。すぐ側に置いていたナイフで口元のラップを切りとると咽せた息づかいが室内に響く。一切音なく、明かり少なく。必要以上に空間を冷やすエアコン。ベッドから蹴り落とし、瞳に光を宿す男。
そうやって遊ぶ日々が続いたあるときカウンターにいるスタッフから、この人もラッピングが好きなのよーと紹介され話すことになった青年が、まぁSMプレイとちょっと違うからね、皮膚感覚なのさ、フェティッシュプレイというやつさ、という。男に向けて、きみは本当は殺したいんだろ、つまりピークに達したいんだ、でもボクは違う、永遠さ、きみは永遠を知ってるか? それは、死そのものなんだよ! 男は久しぶりに物語が迫ってきたと思う。これまで数多くのM女と遊んできたが彼女たちの身の内を男はほとんど聞いてこなかったのだ。ファンタジーのなかで死ぬ女たちの過去を知っていったい何の興奮があるというのだろう。男はただ殺したいだけであり、下克上やいじめを望む妄想から欲望を育ててきたわけではない。そもそも生きている人間を相手にする限り、誰一人例外なくその相手にする者たちに独自の物語があるのは聞くまでもないことだ。それを壊す。それが、男の抱える業であり弱点でもある。やまず規模が膨らみ加速していく夢を越えプレイし続けることが男の生き長らえる唯一の術であり、他の趣味を作る暇なく稼いで得たお金も流していく。だが、永遠とはどういうことだ? 一人の女を連れて男は青年のプレイにつきあうが理解できない。事実として死に至るような過程がすべて省かれ延々と続くのが死というなら、それは男が抱える欲望自体の死であるように思う。しかし、この青年は、男が通う店にときおり現れるようになり、向こうは、あ、どうも、と下手を装い、それでなんとなく身近に感じるようになり、ずっと続けているということは真剣なのだろうが、男には分からない。彼は彼でモテているようだしそれで女たちが笑顔を見せているのなら敵対しない限り決して悪い存在ではないのだろう。だが、同時にラッピングのブームは去る。男はもっとダイレクトに殺したいのだ。ときおりあの女と会い、あれやこれやと新しい試みをする。
夢が現実と化すこと、それは男にとって恐怖だ。鉄塔での出来事以来眠ったときに見る夢と男の本能が望んでいることとの差がなくなったが、であるならば夢など叶わない方がいい。同時に、少しずつ夢と交わっていかなければ、自らの影に背後から刺されるのだ。あるとき母に呟く、俺の両親ってどういう人だったんだろう。母が憐れみ混じりの脅えた目をして、深い溜息をついたので、咄嗟に、いや、お母さんのことを俺は本当の、唯一の親だと思ってるよと付け加えるが、母の役割を演じ続けている女が、あなたにはね、本当に、普通に育ってほしいの、と目に涙を浮かべる。でも、血、なのね、そんなことが気になるなんて。男は生まれて初めて実の両親が抱えていた物語に関心を抱いたが、その日、雪が降ったのだ。窓から眺めて、もうそんな季節になっていたのかと思う。雪の日にも雷が落ちるのかな、男は冗談混じりにいう。ねぇ、長いことあなたをお墓参りに連れて行かなかったよね、会わせるのもいいかもしれない、こんなに大きく元気に育ったんだって、喜ぶかもねぇ、あの人たちも少しは安心するかもしれない。女が、薄く淡い部屋着のワンピースで部屋の隅の小さなソファで横たわっている。男は、いや、いい、親は、お母さんだけなんだから、急いでいう。両親がどのような業のもとで短く生きたのかしらないが、こんな男が現れたら安心するどころか絶望するに決まっている。開かずの間だ。開いてはいけない門だ。その向こうになにがあるのかまるで興味もない。ただ冷たい殺戮の現場があるだけなんだから。男は、雑誌を手にとった女に目をやり、殺したいと思う。性、それは愛だ。ちょっとでかけるからシャワー浴びてくるよと部屋を去る。もやがかかったバスルームで握りしめたものから白濁の液体がどくどくと垂れる。それから、なにかバイト先を変えてもっとずっと忙しくした方がいいのかもしれないと思う。鉄塔が見える場所に座り、ただそれを見つめる。門は、一つであってはならない。永遠に連なる小さな門が闇のなかずっと果てまで続いていて、それを一枚一枚開けるだけだ。永遠、と、呟く。
_underline , 2013